時代を超えてよみがえる巨匠たちのレコード演奏会
(第77回プログラム)


主 催 SP・LPクラシックレコード音楽研究会 代表丹野井松吉
レコード演奏家 吉井秀男会員(第1部)
日 時 令和元年11月9日(土)
午後1時から午後6時半ごろまで
会 場 音pub Westminster house(電話 090-3345-2124)
東京都台東区蔵前三丁目17番4号 蔵前妙見屋ビル4階
地下鉄大江戸線蔵前駅下車2分、寿三丁目交差点1階花屋
会 費 1,000円


曲目と演奏

第1部
江戸時代の邦楽
新内
1、蘭蝶
2、尾上伊太八
3、恋娘昔八丈
4、明烏 
浄瑠璃
新内志賀大掾
新内志賀直登太夫
三味線
新内勝一郎
上調子
新内仲三郎  (1965,1966)


第2部
昭和10年代から30年代激動の時代の日本流行歌
オリジナル原盤の復刻LPレコードによる
酒は涙かため息か、影を慕いて、人生劇場、大利根旅情、支那の夜、蘇州夜曲、露営の歌、暁に祈る、リンゴの歌、東京ブギウギ、長崎の鐘、湯の町エレジー、東京キッド、リンゴ追分、青い山脈など、リクエストにも対応。



第1部 吉井秀男会員のコメント

新内、いずれの曲も、名曲中の名曲です。
演奏家、語りの新内志賀大掾は20年以上前に他界ですが当代最高峰でした。
三味線の新内勝一郎も10年前に他界ですがやはり当代最高峰でした。
上調子(1の糸は使わず2の糸と3の糸を使う)の新内仲三郎はまだ現役の人間国宝です。

  1. 新内の歴史

    (1)1730年頃、京都の一中節が江戸に進出、宮古路豊後掾が独自の芸風で大評判をとりましたが扇情的と官憲の弾圧で禁止され(1739年)京都に戻ってしまい、江戸に残った弟子が去住に迷い、工夫して(1747年)「常磐津」それから「富本」さらに「清元」と分かれました。
    加賀太夫もその頃富士松薩摩太夫と名乗り(1745年)一派を興しますが、その弟子の鶴賀加賀太夫、後の鶴賀若狭之掾(~1786年没)が文才に長じており「明烏夢泡雪」「若木仇名草」「帰咲名残命毛」、いわゆる3大名曲の明烏、蘭蝶、伊太八を自作自演して大評判をとりました。
    しかし兄弟弟子の鶴賀新内(~1810年没)の方が天禀の美音、裏に抜くその声がたまらぬ魅力で猫も杓子もそれを真似して鼻に抜けるような声を出したため、富士松或いは鶴賀とは呼ばずにこの浄瑠璃を「新内」(1780年前後)と呼ぶようになった次第です。
    新内はこの高音の鼻に抜けるような凄艶な節調と、その殆んどが、男女の情事の果てに心中するという内容のものが多く、高尚とか上品とは無縁、いきであることを信条としています。
    この「いき」或いは「粋」という言葉は「明和頃、深川の岡場所に流行し、のち一般化した語。遊里の人情、風俗、慣習等によく通じ、諸事によく気のつくこと。酸いも甘いもよく知って、気がさばけていること。あかぬけていること。洗練された美があること」と物の本には書かれています。
    今は新内の愛好者は近年少なく、いきを売物のこの芸はやがて滅びゆく日本の芸能かも知れません。

    (2)新内とは
    前述の通り新内は二百数十年の歴史があります。
    邦楽には唄い物と語り物の2つがありますが、常磐津、新内、清元は語り物で、長唄が唄い物です。
    新内は「いき」、清元は「いなせ」、常磐津は「やぼ」、土地柄で言うと新内は「深川」、清元は「神田」、常磐津は「四ツ谷」、身分で言うと新内は「職人」、清元は「町人」、常磐津が「武士」です。
    何となく違いが分かるでしょう。

    (3)新内の曲は
    ① 端物(新内の代表する3大名曲・蘭蝶、明烏、尾上伊太八が有名)、②段物(関取千両幟・鬼怒川物語等が有名)、③滑稽物(名物姥ヶ餅、東海道中膝栗毛等が有名)、④祝儀物(勢鳶頭(キオイトビ)、子宝三番叟等が代表曲)がありこの4つに分類されます。
    ① 端物とは1つの物語が決まる題材で、江戸時代は実際の事件通りに演じると手が後ろにまわるのでじつは夢でしたとしたわけです。
    ② 段物とは義太夫などの題材は全部演じると1時間以上かかる為1段、1段切って唄うとした次第です。関取千両幟、鬼怒川物語などはその代表です。
    ③ 滑稽物とは茶化してしまう曲で東海道中膝栗毛などがその代表曲と言うわけです。
    よく新内の中に百両とか二百両とか出てきますが誇張して言っているわけです。
    1両と言うと10万円~20万円ですので100両とすると1000万円~2000万円になってしまうので誇張があるわけです。
    蕎麦代の16文は実際の値段のようです。

    (4)新内の由来について
    最初は「鶴賀節」と言っていたのがいつの間にか鶴賀新内の美声が喝采を博し「新内節」となった次第です。
    新内は豊後節から、清元は新内よりさらに遅れて富本節から枝分かれしたそうです。
    心中の言葉の意味、本来は心中=自殺ではなく行き着く所がそうなのだと。
    伝統芸能の世界では、ご恩のある方のために、自分を犠牲にするといったストーリーの作品がよくあります。
    自分さえよければ!という現代の世相では理解しにくいかも知れません。
    己が命を絶つとか、女房、子供を恩人や主君の身代わりにするとか、夫のために廓に身を売るとか、そんな切ない物語の世界が新内の真骨頂なのです。

  2. 曲の紹介

    ㈠ 「蘭蝶」について
    蘭蝶に始まり、蘭蝶に終わるといわれる程の新内の名曲、代表曲です。
    ①お宮口説、②四谷、③深川竹、④心中場 の4つを総称して蘭蝶と言う訳です。
    その代表がお宮口説です。
    亭主、女房、遊女の三角関係という事で、人間の持っている業のようなものが語られております。
    女房お宮が、亭主蘭蝶のいい女、「此糸」に縁を切ってくれと頼む、その切々とした情が聴かせどころです。
    蘭蝶に此糸がいる為、世帯が詰まり詰まって深川の芸者へ身売りして2度目の勤めをしているお宮からの情理をつくした必至の願いを入れて、此糸は別れる約束をする
    が、隠れ聞いていた蘭蝶は女房の真心に胸をえぐられながらも此糸を思い切れず、心中するという筋立です。

    「蘭蝶」の歌詞
    云わねば、いとゞォ、せきィかゝァる、胸ェの涙ィのやる方なさ。ァノ蘭蝶殿と夫婦の成立、話せば長い高輪で、一つ内に互いに出居衆。縁でこそォあれェ、末かァけェて、約ォ束ゥ堅ァァめェ、身をォ、堅ァァめ、世帯堅めェて、落付いィて。ァーァ、ァーァ、アーアーア、嬉ェしィやァと、思ふゥたァはァー、ほんにィ一ィ日あらばァァこそ。そりゃ誰故ェじやァ、皆さん故。
    大事の男を唆ァかしィ、夜ゥ昼とォなァくゥ、引付けェーらァれ。商売事は、上のォ空ァ。贔屓でェ、呼んでェーェェ、下さいす。馴染のォ、お客、茶屋衆ゥも、来るゥゥ度毎ォにィ。又ァ留守かとォ、愛想ォ尽かァされェ、後ィ後ィは。呼んでェくれェてェも、内緒ゥの、詰まりィ詰まって、私がァ身を得って渡ァしたその金をォォ、又ァ皆さんもィ、入揚げェェられ。嬉ェしィかろうか。よかァろうか。腹がァ立つゥやァら、口惜しいやら。食付きたいィ程、思ふたァはァァ、今日迄日にィはァ幾度か。その恨みをもォ打ィ捨ェて、互いのーォォためェの心底話。


    ㈡ 「明烏」について
    新内節の本名題は「明烏夢泡雪」で1772年(安永5年)初世鶴賀若狭掾作詞・作曲。3年前(明和6年)に江戸三河屋で吉原蔦屋の遊女三吉野と浅草蔵前伊勢屋伊之助(幕府の御賄方伊藤家の息子ともいう)が情死した事件を、山名屋浦里と春日屋時次郎の情話として脚色したもの。哀調を帯びた曲と内容が江戸市内の人気を集め、新内節の代表曲の一つとなった。

    「明烏」の歌詞
    主を思うてたもるものわしが心を推量しや何の因果に此ように愛しいものかさりとては(中略)
    たとえこの身は泡雪と共に消ゆるも厭わぬが此世の名残りに今一度逢いたい見たいとしゃくり上げ狂気の如く心も乱れ涙の雨に雪とけて前後正体なかりけり
    男はかねて用意の一ト腰口に銜えて身を固め(忍び忍んで屋根づたいそれと見るより悲しさの伝えてたわむ松ヶ枝も今宵一ト夜のかけ橋と足もそぞろに定めなき(中略)
    なんなく下へおり立って)
    二人が縄を切りほどき  宮「コレコレ浦里ここで死ぬるもやすけれど遁るるだけは落ちてみんつい此塀を越すばかり幸いこれなる松の枝伝うて行かん」
    諸共と
    互に手早く身ごしらえみどりも共にと取縋る可愛や此子は何とせんオ、心得たりとみどりを小脇に引ッ抱え甲斐甲斐しくも時次郎松の小枝を浦里にしっかと持たせあたりを見廻し忍び返しを引ッぱずし梯子となしてさしおろしようよう三人塀の上おりんと思えど女の身浦里は胸を抱え死ぬると覚悟極めし身の上何か厭わんサア一緒と手を取り組んんで一足飛び実に尤もとうなづいて互いに目を閉じ一ト思いひらりと飛ぶかと見し夢は覚めて跡なく明烏のちの噂や残るらん。


    ㈢ 「伊太八」について
    本名題は「帰咲名残の命毛」「尾上伊太八」ともいう。明和年間(1764年~72年)1世鶴賀若狭掾の作詞・作曲でやはり同人作の「蘭蝶」「明烏」とともに新内の代表曲とされる。津軽岩松藩の江戸詰祐筆役原田伊太夫が吉原の遊女と深い仲となり、免職されて心中未遂事件を起こしたという話を脚色したもの。最後はめでたく夫婦になるという展開が暗示されている。

    「尾上伊太八」の歌詞
    逢いそめてより一日も烏の鳴かぬ日はあれどお顔見ぬ日はないわいな
    「これやかましい静かにしや」「ヤアお前はよう寝て」「ハテどう寝らりょうぞまずこちらへおじゃ」と部屋の内
    尾上はいとどしゃくりあげ好かぬ事をば言わしゃんすいかに流れの身じゃとても心に二つはないわいなとへ私が請出され御新造様の奥様のと人に傳き敬はれ
    上見ぬ鷲で暮しても厭な男に気兼ねして朝夕苦労するよりも
    やっぱり二人が手鍋提げ手づから私が飯焚いて内の者よ此方の人翌はどうして斯うしてと云うが楽しみ
    詞「私ゃ嬉しい」「ハテいつ迄言うても尽きぬこと、どうで今宵はすごされぬ巳は覚悟をして居る」と
    押肌脱げば白無垢の思いつめたる死出扮装
    尾上は悲しさ嬉しさに手早く箪笥押し開けて俱に着換える晴小袖


    ㈣ 「恋娘昔八丈」について
    松貫四、吉田角丸合作。1775年(安永4年)8月江戸外記座で初演。江戸新材木町の材木商白子屋の娘お熊が手代と共謀して婿を殺害した罪で処刑された事件(1772年)を脚色したもので、四段「城木屋」と五段「鈴ヶ森」が知られている。城木屋の娘お駒は髪結才三郎と恋仲だが、家のため持参金付きの婿喜蔵を迎えることになる。もと侍の才三郎は盗まれた家宝の茶入れを喜蔵が所持することを知りお駒に取り戻すことを頼む。お駒は横恋慕の番頭才八に唆され、喜蔵を毒殺したため、鈴ヶ森の刑場に引かれるが処刑の寸前、喜蔵が親殺しの下手人という才三郎の訴えにより、罪を許される。題名はお駒が刑場に引かれるとき、黄八丈の着物を着ていたのによる。

    「恋娘昔八丈」の歌詞
    (1)城木屋の段
    聞かしゃんしたら
    腹が立とう嘸憎かろう
    さりながらそりゃ聞こえぬぞへ才三様お前と私が其の仲は昨日や今日の事かいな
    屋敷に勤めた其のうちにふっと見染て恥づかしい恋のいろはを袂からそっと私が心では天神様へ願かけて
    梅を一生絶ったぞへ
    其のお影やら嬉しい返事
    二世も三世も先の世かけて誓ひし仲ぢゃないかいな
    今宵の事を知らせまし問談合もせうものと
    待ち兼ね居るものをあんまり酷い愛想尽かし叩いて腹が癒へるならば
    心任せにした上でもう堪忍をしてやると言ふて堪納させてたべと才三の膝に縋りつき餘所を憚る忍び泣き真実見えていぢらしし

    (2)鈴ヶ森の段
    二上り説教
    不便やお駒は夫のためかかる憂身の縛り縄顔さし入れる懐中を洩れて流るる泪橋
    覚悟きわめし健気さに不便と見ゆる諸役人涙まぎらすばかりなり
    お駒は顔を振上げて

    世上の娘御様方は此駒を見せしめと親の許さぬいたづらなど必ず必ず遊ばすなえ、
    可愛い夫へ義理立てば両親に歎きをかけ又親々に従えば言交した夫へ立たず果はこうした浅ましい二世の契りのその人と一世と限る両親のもしや群集のその中に見えはせぬかと伸上りても竹垣の透間がくれの人群に目も泣きはれて見えわかぬ心を思い諸見物ぬれぬ袂はなかりけり

  3. 三味線の木

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